母がわたしの家に1泊した。
夜、一晩中となりで寝ている私に質問を繰り返した。わたしはそばに寝ているからそれで話したくなるのだろうかと、おきて隣の部屋でパソコンに向かってみた。それでも母はおきてきてわたしを見つけて話しかけてきた。それを何度も繰り返した。
母の体が冷え切ってしまわないか心配でベッドへ案内するのをくりかえしたあと、また母の隣に横たわった。でもまた母は質問ぜめにしてきた。
やや異常とも思える行動を繰り返しているうちに朝がきた。
さぞ、体も心も疲れていることだろう。私もそうだった。
朝になって少し横になったらと勧めたら気持ちよさそうにいびきをかいて少し眠った。眠っているその横顔をみるとほっとした。
そして午後陽のあたるソファに二人で横に並んですわっていたら
「ああ、こうしてのんびり特にしなくてはいけないこともなく
きらくにすごせるってええことやなあ。」
と心からうれしそうにつぶやいた。
母からそんな思いを聞けたのはうれしかった。
働き者の母、じっとしていることの嫌いだった母が今は心から休みたいと思っている。
そしてこっくりこっくりし始め、ソファーで横になるとぐっすり
眠りこんだ。
わたしはその横でひたすら本を読んだ。
大井 玄「痴呆老人は何を見ているか」新潮新書
ー世界とつながって生きるのは大変な作業である、と思うようになりました。ーーーーーー
これが序章の冒頭に書かれている。
もう少し続けてかくとーーーーーーー
言うまでもなく、私が周りの世界につながっているためには、見たもの、聞いたこと、喋ったことを記憶しており、ここが何処で、今は何時なのかなど見当がついていなければならない。このつながりの喪失が、認知症の人に「不安」という根源的情動を抱かせることになる。怒りや妄想などは存在を脅かすその不安が形を変えたもののようにも見える。とは言うものの認知症の人たちは、私たちが「世界」と信じている世界と厳密につながらなくとも、それぞれの世界を記憶に基づき創りあげ、そこに意味と調和を見出している場合も多い。ーーーーー
この本にはとても専門的な話も多いのだけど
私が知りたい認知症を背負った人の認識
他の人には わけの分からないと思われるようなこともきっと
その人の中ではうまく繋がっていてそれを理解する事ができたら
その人をわかってやれると思う。
−−結局は本人が「安心」できる環境が用意されているか否かの一点に尽きるようだ。介護の苦労は様々あるが、認知能力の衰えた人が安心できる環境は、愛情と工夫があれば多くの場合整える事が可能だ。−−−−
の箇所をよんでとても勇気づけられた。
「折り梅」という映画がある。映画のおわりにちかづいた場面で
認知症の義母がお嫁さんに「そろそろ出かけます。」といって家を出ようとするのをお嫁さんが「あら、その前にいっぱいお茶でもいかがですか。」といって二人でお茶を飲む場面がとても印象的だった。
筆者によれば これは「夕暮れ症候群」というらしい。
ーー夕刻老母は落ち着きをなくし、家に帰ると言い出す。半世紀も住んでいる自分の家からどこの家にいこうというのか、どうも
「家」とは彼女が生まれ育った田舎の家らしい。「今日はもう暗くて寒いから、明日の朝一緒に行きましょう。」などというと落ち着く。しかし彼女が落ち着く理由は、介護者のことばによってもうひとつのつながりを得たためだと思われる。−−−
母と心が繋がることをわたしはいつも望んでいる。徐々にそれは
細くなっていくのもかもしれないが、母の住む世界を理解できれば
少なくとも絶望的にならずに母を見守ってやれるだろうと思う。
夜、一晩中となりで寝ている私に質問を繰り返した。わたしはそばに寝ているからそれで話したくなるのだろうかと、おきて隣の部屋でパソコンに向かってみた。それでも母はおきてきてわたしを見つけて話しかけてきた。それを何度も繰り返した。
母の体が冷え切ってしまわないか心配でベッドへ案内するのをくりかえしたあと、また母の隣に横たわった。でもまた母は質問ぜめにしてきた。
やや異常とも思える行動を繰り返しているうちに朝がきた。
さぞ、体も心も疲れていることだろう。私もそうだった。
朝になって少し横になったらと勧めたら気持ちよさそうにいびきをかいて少し眠った。眠っているその横顔をみるとほっとした。
そして午後陽のあたるソファに二人で横に並んですわっていたら
「ああ、こうしてのんびり特にしなくてはいけないこともなく
きらくにすごせるってええことやなあ。」
と心からうれしそうにつぶやいた。
母からそんな思いを聞けたのはうれしかった。
働き者の母、じっとしていることの嫌いだった母が今は心から休みたいと思っている。
そしてこっくりこっくりし始め、ソファーで横になるとぐっすり
眠りこんだ。
わたしはその横でひたすら本を読んだ。
大井 玄「痴呆老人は何を見ているか」新潮新書
ー世界とつながって生きるのは大変な作業である、と思うようになりました。ーーーーーー
これが序章の冒頭に書かれている。
もう少し続けてかくとーーーーーーー
言うまでもなく、私が周りの世界につながっているためには、見たもの、聞いたこと、喋ったことを記憶しており、ここが何処で、今は何時なのかなど見当がついていなければならない。このつながりの喪失が、認知症の人に「不安」という根源的情動を抱かせることになる。怒りや妄想などは存在を脅かすその不安が形を変えたもののようにも見える。とは言うものの認知症の人たちは、私たちが「世界」と信じている世界と厳密につながらなくとも、それぞれの世界を記憶に基づき創りあげ、そこに意味と調和を見出している場合も多い。ーーーーー
この本にはとても専門的な話も多いのだけど
私が知りたい認知症を背負った人の認識
他の人には わけの分からないと思われるようなこともきっと
その人の中ではうまく繋がっていてそれを理解する事ができたら
その人をわかってやれると思う。
−−結局は本人が「安心」できる環境が用意されているか否かの一点に尽きるようだ。介護の苦労は様々あるが、認知能力の衰えた人が安心できる環境は、愛情と工夫があれば多くの場合整える事が可能だ。−−−−
の箇所をよんでとても勇気づけられた。
「折り梅」という映画がある。映画のおわりにちかづいた場面で
認知症の義母がお嫁さんに「そろそろ出かけます。」といって家を出ようとするのをお嫁さんが「あら、その前にいっぱいお茶でもいかがですか。」といって二人でお茶を飲む場面がとても印象的だった。
筆者によれば これは「夕暮れ症候群」というらしい。
ーー夕刻老母は落ち着きをなくし、家に帰ると言い出す。半世紀も住んでいる自分の家からどこの家にいこうというのか、どうも
「家」とは彼女が生まれ育った田舎の家らしい。「今日はもう暗くて寒いから、明日の朝一緒に行きましょう。」などというと落ち着く。しかし彼女が落ち着く理由は、介護者のことばによってもうひとつのつながりを得たためだと思われる。−−−
母と心が繋がることをわたしはいつも望んでいる。徐々にそれは
細くなっていくのもかもしれないが、母の住む世界を理解できれば
少なくとも絶望的にならずに母を見守ってやれるだろうと思う。
コメント